「相田みつを美術館」のエントランス正面には、相田みつを氏
のアトリエで撮られた大きな写真が展示されている
一人さんの誕生時から高校卒業まで、みつをさんは「のびゆく子」というタイトルで短歌を作り続けた
vol.5
相田みつを美術館 館長

相田一人さん インタビュー

2024年5月に生誕100年を迎える相田みつを氏。
67年のその生涯において約700点もの作品を
書き残した。偉大な書家であり
詩人である相田氏のご長男で、『相田みつを美術館』の館長を務める相田一人さんに、
父親の作品をモチーフとする写真絵本は
成立するのか、その実現性について聞いてみた。
相田一人あいだ・かずひと
1955年、相田みつを氏の長男として栃木県足利市で生まれる。出版社勤務を経て、91年のみつを氏の逝去後、96年に「相田みつを美術館」を東京・銀座に設立、館長に就任。以降、『じぶんの花を』『本気』(文化出版局)、『いのちいっぱい』(ダイヤモンド社)ほか、相田みつを作品の編集・監修に携わる。さらに自身の著書として『父・相田みつを』(角川文庫)、『書・相田みつを』『相田みつを 肩書きのない人生』(文化出版局)なども手がける。2003年11月、東京国際フォーラム地下1階に同美術館を移転。現在は美術館業務の傍ら執筆、講演活動などを行っている。

相田みつを作品と
写真絵本の可能性は?

――大空出版の写真絵本シリーズをどのようにご覧になりましたか?

相田:ビジュアルのインパクトが非常に強くて、どちらかというと写真がメインで言葉がサポートをする、そのあたりのバランスの取り方が、とてもうまくできているなと感じました。また、文字量があまり多くなく簡潔にまとまっていて、知りたいことがパッと分かりますね。

 スマートフォンの出現によって、物事を伝えるツールの利便性が格段に良くなっていることからも、写真絵本は従来の絵本とは違う一つのジャンルを築いていくでしょうし、プロとか素人とかを取り払った、今までにないアートができるような気がします。私の世代の表現法は言葉と絵が一般的でしたが、これからは写真と言葉というスタイルが主流になってくるのではないでしょうか。

――相田みつをさんの詩を物語として表現し、写真絵本を作ることは可能ですか?

相田:皆さんにお馴染みの《つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの》という詩がありますが、私にはその後ろにまた別の二つの作品が透けて見えるんですよ。一つは、《つまづいたりころんだりするほうが自然なんだな にんげんだもの》。もう一つは、《柔道の基本は受身 受身とはころぶ練習まける練習 人の前にぶざまに恥をさらす稽古 受身が身につけば達人 まけることの尊さがわかるから》。

 この「七転八倒」と「受身」という詩を踏まえて《つまづいたって……》が生まれ、両作品を後ろに据えることで、初めて本当の意味を理解していただけるのではないかと。そう考えると父の作品には相互に関係が深い作品がたくさんあって、そういった詩を並べてキャプション的に補足すれば、写真絵本のような形式も可能だと思います。

写真の代わりに短歌で残した
子どもたちの成長記録

――みつをさんは写真にも興味を
お持ちでしたか?

相田:父の生前にスマートフォンがあれば写真をバチバチ撮っていたと思いますが、わが家にはカメラがなかったんです。常に今日食べる米の心配をしているような暮らしだったので、たまに親戚にカメラを借りて撮った写真が2、3枚あるくらい。そんな厳しい生活環境でしたが、父は何とか子どもたちの成長記録を残したいと考えて、写真の代わりに短歌を作ってくれました。私が生まれた時は、《てのひらに わがのせたればにんげんの そのはじまりのいのちがうごく》。

 高校時代に進路に悩んでいた時には、《どのような道を どのように歩くとも いのちいっぱいに生きればいいぞ》。実際の写真は手元にないけれど、私たち親子にとってはその時々の私と妹を映し撮ったスナップショットのようなものが、確かに残っているんですよ。

――書家・詩人として大成される前に、
短歌の心得もあったんですね。

相田:10代~20代は完全に歌人でしたが、30代から短歌を離れて誰にでも分かる短い言葉の形成に変えていきました。短歌というのは作っている人には理解しやすいけれども、一般の人たちが入っていくにはちょっと敷居が高い。そのことを何らかのタイミングで痛感したのでしょう。とはいえ、父の作品のベースには短歌があると私は思っています。先ほどご紹介した《つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの》や、《うつくしいものを美しいと思える あなたのこころがうつくしい》などは、まさに短歌のリズムから来ている作品と言えますね。

父の作品のベースには短歌がある
多くの作品にも現われています

――短歌をベースとしたみつをさんの作品に込められている思想とは?

相田:書家・詩人という道を選んだ父の生涯のテーマが、「自分の言葉自分の書」なんですね。その生き方は《道はじぶんでつくる 道は自分でひらく 人のつくったものはじぶんの道にはならない》という作品に集約されていると思います。

 でもよくよく考えれば、どんな言葉も世の中にすでに存在しているものですし、書には何千年にも及ぶ歴史があって、いろんな人がいろんなスタイルで書き尽くしている。それでもあえて「自分の言葉 自分の書」でやっていくと、若い頃から宣言して貫き通した。

 おそらくそれ以外に生きる道がなかったからやむにやまれず、とにかく言葉を紡ぎ出したいという感情が圧倒的に強かった。そうでなければ、700点以上もの作品を生み出すことはできませんよね。

みつをさんが今の時代に生きていたら……。「写真も日常的に撮っていたでしょうし、
もしかしたら写真絵本のベストセラー作家になっていたかもしれません。あり得ない話ではないですね」
と一人さん。ただし自分自身の生き方同様、「機械の力や既存のフォーマットなどに頼るのではなく、
《写真はじぶんでつくる 写真はじぶんでひらく》、そんな作品を作り出したでしょうね」

生誕100年と開館30年
二つの大きな節目に向けて

――長年にわたり多くの人たちに
愛されている作品の数々を、
次世代にどのように伝えていかれますか?

相田:私はあくまで息子の立場として、非常に限られた視点で作品を見てきました。それはそれで必要なことかもしれませんが、若い人たちは全く別の角度で見ているということを、最近特に感じています。

 例えば、人気子役の村山輝星きらりちゃんが好きな言葉として《一生勉強一生青春》を挙げてくれているんですね。4歳の時に、おじいさんから教えてもらったそうです。まだ12歳の輝星ちゃんと私とでは、同じ言葉に対しても捉え方は全然違うでしょう。だからこそ、そういう人たちにバトンタッチができればいいなと思うんです。

 なぜなら、《にんげんだもの》というフレーズに象徴されるように、父の作品は「こんな風に見てほしい」といった書き方は一切していなくて、誰もが自由に受け止められるような書き方をしています。見る人によっていかようにも変わり得る世界だと思いますので、新しい世代は新しい世代なりに、父の言葉を受け止めていただけたらうれしいですね。

――最後に今後の展望について
教えてください。

相田:今から32年前、67歳の若さで父は亡くなりました。それから5年後に「相田みつを美術館」を設立したのですが、その際に父が100歳を数える年までは頑張ろうという目標を立てました。ところが当初は1、2年後どころか、明日存続しているかどうかも分からない状況が続いて、先が全く見えませんでした。それがおかげさまで来年に生誕100年、さらにその2年後の2026年には開館30年を迎えさせていただきます。この二つの大きな節目に向けて、今後とも私なりに父の作品を紹介していければと思っています。

文・菅原悦子 撮影・関 真砂子

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